ミュージカル「シデレウス」(6月17日~6月30日)感想

ミュージカル「シデレウス」を見に行った。同じチームの初日と千秋楽を観劇したのだが、どうもあまり自分には響かない作品だったので、その理由を考えてみたい。

実を言うと私は宇宙の話というものに疎く、この舞台を見に行こうと思ったのも単純に好きな役者が出ているからだった。芝居のことはよくわからないけれど、その役者が演技をしているときの呼吸表現や身体の動きが好きなのだ。この人の呼吸には生き死にの悲哀を感じる。それを目の前にすると気分が高揚するのである。

それはさておき、この作品は舞台の両端にガリレオ役とケプラー役がいて、たびたびマリアが中央に現れるというのが基本の型のようだった。この型が私には少し合わなかったようだ。視線を左右に動かす必要があるため、前の席に座る観客の姿も色々と視界に入る。ここで舞台への没入感が軽減されてしまった。それから会場が思ったより寒くて、終盤は自分の膀胱との戦いだった。開演前から厚手で大きな肩掛けを身体に巻き付けたし、着席前にトイレにも行ったのだけど……。

ストーリーは比較的シンプルだったと思う。ガリレオケプラーが手紙のやり取りのみで交流を深め、宇宙の共同研究を始める。望遠鏡を開発し、やがて地動説につながる事実を導き出す。それが原因でガリレオが異端審問にかけられ……という、ガリレオと地動説のエピソードを軽く知っているだけで充分にラストを予測できるものだった。初日を見終えたときは「それで、結局この話は何が言いたかったんだろう」と思ってしまった。千秋楽の役者たちの言葉を聞いて、ようやく「生きろ」というメッセージを届けたかったのだな、という考えに至ったが……。ケプラーの「生きてこそ」という作中一大きな声で発せられた力強いセリフがあったにもかかわらず、私はこのメッセージが受け取れなかった。自分の感性の鈍さには呆れてしまう。星たちの頼りというキーワードにも、「いや、星はそこにあるだけで別に人間には語りかけておらんだろ」とか思っちゃっていた。もっと素直に受け止めて感動したい。

ここがもっと語られて欲しかったなと思った点は、ケプラーの「失うものはない」という言葉のバックグラウンドと、敬けんな信者であるマリアが父を責める美しく強い楽曲を披露したにもかかわらず「お父様の本を読んだ」というセリフのみで済まされた、異端審問で父に助力することを選ぶまでの心境の変化の過程である。

しかしケプラーの存在をガリレオ・マリア親子を惑わす純粋な目をした悪魔的なものとして見れば、ケプラーの過去はさほど語られなくても良いかもしれないと思える。ケプラーは三人の登場人物の中で唯一十字を切っていないし、神を信じると言いながらその恩恵を期待していない風がある。加えて先に挙げた「失うものはありませんから」という発言をしたときには、どこか不穏さを漂わせていた。もしもケプラーが悪魔で、異端審問のときにここで無理に地動説を主張してガリレオを失うよりも、生き延びさせてその後も新たな宇宙の研究を行うよう仕向けた方が良いと判断したら?才知有るガリレオに今後も何らかの発見させ、彼の研究によって神と宇宙の関係に揺さぶりをかける。その方が大勢の人間たちに神の存在を否定させることができると考えていたのだとしたら……なんて想像もできる。今した。そう考えると、再会後に楕円軌道の法則を唱え始めたことも不気味に思えてきてしまう。
 
マリアはほか二人よりも描写が少なく、ガリレオの娘というよりは話を補う役としての存在意義があるように感じられた。ガリレオの意識が宇宙やケプラーに向きがちで、娘のことは放置気味だったせいもあるかもしれない。最後のガリレオとのやりとりは、父-娘と言うより母-息子のような関係に見えた。そのような心境に至るまでのマリアをもっと知りたかったと思う。

「インクの染み」が私にもついた、と歌いながら父の髪をわしづかみ、地面に押さえつけるマリアが強く印象に残っている。

ブログを始めてみようと思ったのはいいけれど

はてどのように何を書けばいいのやら。
とりあえずメモ帳に考えた自己紹介でもここにコピペしようかと思ったけど、なんかお堅い気がするのでやめる。

そもそもの発端は、自分の散漫な思考を定期的に人様が読めるような文章にまでまとめたら何か良いことがあるんじゃないか……という淡い期待を持ったことだったので、あんまり気張らずに続けられたらな~とか思う。この「続けること」が難しいんだけど。

ちなみに普段は絵を描いたりしています。